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【5分でわかる】律令制(りつりょうせい)とは?簡単にわかりやすく解説

日本史の授業で必ず登場する「律令制」という言葉。なんとなく「何か制度ができたのかな」とわかっても、具体的に内容や誕生の経緯を知っている人は少ないかもしれません。

律令制とは国を統治するために決められた制度です。律令制が日本で誕生したのは7世紀ですが、なぜ当時こうした制度が必要だったのでしょうか?いつからいつまで存在したのでしょうか?

この記事では日本史が苦手な人・嫌いな人でも理解できるように簡単にわかりやすく律令制について解説していきます。ぜひ最後まで読んでみてください。

律令制とは何か?

律令制とは「律と令という制度によって国を治める制度」です。律令によって治められた国家を「律令国家」といいます。

それでは「律」と「令」にはそれぞれどのような意味があるのでしょうか?

「律」とはしてはならないことや反した場合の刑罰を定めた法を指します。現在の法律でいうところの刑法にあたるものです。

「令」とは政治を行う仕組みを定めた法を指します。現在の法律でいうところの民法・商法・行政法・訴訟法などがこれにあたります。

律令制は今日では当たり前の「法によって国を治め安定させる」ことを目指した仕組み・制度でした。さまざまな分野の決まり事や刑罰を明文化することで、各個人を支配下に置き統治しやすくしたのです。

ノミチちゃん

ノミチちゃんの一言まとめ

「律はやってはいけないこと、令は政治の仕組みなんだね。今では法で国を治めるのは当たり前だけど、当時はそれが画期的だったんだね!」

律令制の目的・始まった理由は?

日本では7世紀後半に唐の律令が輸入され、それをもとに律令制・律令国家が成立しました。当時日本を統治していた皇室や大きな権力を持つ中央豪族は、中国を筆頭に周辺国の統治形態が変化するのを目の当たりにし、早急な権力の集中が必要だと考えました。

それまでの日本は族制的な政治体制で、各豪族が私有地・私有民を独自に統治していました。こうした状況では国としての新なる成長が難しく、強力な権力統治による人民の支配を達成するために中国の支配体制=律令を輸入したのです。

ノミチちゃん

ノミチちゃんの一言まとめ

「律令制は権力の中央集権による人々の支配を進めることを目的に導入されたのか!時代が違えどいまの日本社会の仕組みと似ているね。」

律令制はいつからいつまでの制度?具体的な律令を押さえながら確認

律令制は中国から日本に輸入する形で成立しました。中国の律令制は隋・唐の時代に完成したと言われています。唐の律令は以降の中国歴代王朝で参考にされると同時に、日本や朝鮮、ベトナムなど周辺国にも大きな影響を与えました。

日本では7世紀後半に唐の律令が輸入されさまざまな律令が誕生しました。歴史の教科書で「律令制」の文字だけ見ていると1つだけのように感じますが、一口に律令と言ってもさまざまな律令があったのです。

ここでは主要な3つの律令を紹介します。「大宝律令」は知っている人も多いかもしれませんが、実はその前後には異なる律令が存在しました。

飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう)

689年、持統天皇の時代に施行された律令。律令のうち令が主だった。701年の大宝律令に受け継がれる事項も既に含まれていたと考えられており、日本で初めての体系的な法典といわれています。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年に藤原不比等や刑部親王らが制定しました。唐の律令から強い影響を受けており日本初の「律」と「令」が揃った本格的法典。奈良時代以降の中央集権国家をつくる上での基礎が築かれました。

養老律令 (ようろうりつりょう)

大宝律令と同じ藤原不比等らが編纂。718年に編纂が始まり757年に施行されました。計39年もの歳月をかけて作られた律令で、これ以降は律令制度が変更されることはほぼありませんでした。

こうした律令はつくられたものの国家全体に行き届き守られたかといえば必ずしもそうではありませんでした。わかりやすい例が「班田収授法」です。教科書や授業で見聞きしたことがある人も多いのではないでしょうか。

班田収授法は奈良時代の律令制度を代表する仕組みで、国家が口分田を支給して農業を行う制度です。つまり農地が市有地ではなく公有地=国の土地になったということですめ。

班田収授法は当初そこそこ運用されましたが、途中で「三世一身法」「墾田永年私財法」など「農地の私有化」を認める流れが生まれ始めた上、百姓が逃亡・放棄したり荘園による囲い込みが拡大したことで完全に形骸化・制度が崩壊しました。

こうした制度の形骸化と崩壊の積み重ねにより平安時代半ば頃に律令制は完全に崩壊・放棄されました。

ノミチちゃん

ノミチちゃんの一言まとめ

「時代によっていろいろな律令制があったんだね。別々に覚えていた班田収授法や墾田永年私財法も、実は律令制と関連していたなんてびっくり!」

律令制と街道

律令制の制定と街道の整備は実は関連しています。律令制の制定によって各地の統治や素材の徴収を行う必要が出てきました。そこで円滑に進めるために交通路が整備されたのです。

律令制の時代に駅馬・伝馬などの駅制も整備され、宿場も整備されました。この時代に整備された道はのちに街道となるものもあるため、日本史上初めて地域の枠を超えて広範囲に交通インフラが整備されたのが律令制下だといえるのです。

律令制はなぜ崩壊した?

飛鳥時代末期から徐々に成立し制度化された律令制でしたが、奈良時代の半ばごろから徐々に緩くなっていきます。

理由の一つは律令制を支える農民たちに対して調停が大きな負担を押し付けすぎたから。律令体制下ではピラミッド構造の最下層にいる農民に対して租・調・庸・雑徭・兵役などさまざまな負担が課されました。

こうした負担が大きくなりすぎたため農民の生活が困窮、偽籍浮浪逃亡といった納税を逃れる方法が広まっていったのです。そのため国家は記録に基づく人民には悪と統制が難しくなり、公民制が崩壊してしまいました。

朝廷はこうした状況を受けて開墾地を増やし困窮を解消するために三世一身法墾田永年私財法などの法令を制定、農民たちに開墾を促します。結果として開墾地は増えましたがそれまで公的に管理していた土地の農民による所有が進み、公地制も崩壊してしまいました。

朝廷は崩壊する律令制をただみているだけでなく、さまざまな対策に乗り出しましたが結局崩壊を防ぐことはできませんでした。

要因は農民の困窮だけでなく、農民間の格差の拡大=階層分化の進行・公地公民制の崩壊によって課税把握が難しくなり朝廷が財政難に陥る(財政難の背景には大仏建立や遷都を行いすぎて支出が増大したこともあった)などの理由もあったと言われています。

こうして律令制の崩壊に対して調停はさまざまな対応を行いますが食い止めることはできず、最終的に平安時代半ば頃に律令制を放棄する道を選んだのでした。

ノミチちゃん

ノミチちゃんの一言まとめ

「律令制によって権力集中や公的制度の整備は進んだけど、その負担は一般人や農民に集中していたんだね…」

最後にーノミチには他にも日本史用語解説記事がたくさん!ー

この記事では律令制について簡単にわかりやすく解説してきました。ノミチでは他にも日本史で知っておきたい重要単語や歴史について解説しています。ぜひ以下の記事もあわせて読んでみてください。

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