【東北の影の実力者】最上義光とは何者?何をした人で本当に強かったのか

山形城|山形県山形市 歴史・文化
スポンサーリンク

最上義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて出羽国(現在の山形県周辺)を治めた戦国武将です。

伊達政宗と同時代を生き、東北地方の有力大名として勢力を築いた人物として知られています。派手な武勇伝で語られることは少ないものの、複雑な情勢の中で領国を守り抜き、山形藩の基礎を築いた現実派の武将でした。

最上義光は何をした人?|生涯と時代背景

山形城|山形県山形市

最上義光が活躍したのは、戦国時代の終盤にあたる16世紀後半です。当時の出羽国は、伊達氏、上杉氏、蘆名氏などの有力大名に囲まれた緊張感の高い地域でした。一歩判断を誤れば、領地を失いかねない不安定な状況だったといえます。

義光はその中で最上氏の当主として家を継ぎ、領国経営に力を注ぎました。特定の大勢力に全面的に依存するのではなく、状況に応じて同盟や対立のバランスを取りながら生き残りを図った点が特徴です。

豊臣秀吉の政権下では、中央権力との関係を意識しながら出羽国の支配を固めていきます。そして大きな転機となったのが関ヶ原の戦い前後の動きでした。この判断が最上氏の所領拡大につながり、義光は東北屈指の大名として確固たる地位を築くことになります。

ノミチちゃん
ノミチちゃん

ちなみに仙台の「伊達政宗」とは伯父と甥の関係!義光は政宗の母・義姫の兄なんだって!

最上義光は強かったのか?|長谷堂合戦から見る戦上手としての評価

山形城|山形県山形市
最上義光歴史館で詳しい歴史を学べる

最上義光が「強かった武将なのか」を考えるうえで、必ず挙げられるのが「長谷堂合戦(はせどうがっせん)」です。この戦いは、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いと同時期に出羽国で起きた合戦で、最上義光の戦国武将としての評価を大きく左右する出来事でした。

当時、最上義光は徳川家康方につき、出羽国の支配を維持しようとしていました。一方、上杉景勝は石田三成方に与し、家臣の直江兼続を中心に最上領へ侵攻します。この上杉軍の攻勢に対し、最上方が重要な防衛拠点としたのが長谷堂城(現在の山形市周辺)でした。

長谷堂城は決して大規模な城ではありませんでしたが、地形を活かした守りに適した城でした。最上義光は、自らが前線で派手に戦うのではなく、家臣である志村光安らを配置し、徹底した籠城戦を選択します。上杉軍は兵力で優勢だったとされますが、城を落とすことができず、戦いは長期化しました。

この間、義光は無理な反撃に出ることなく、防衛を維持しながら中央の情勢を見極めます。そして関ヶ原本戦で石田三成方が敗れたという報が届くと、上杉軍は撤退を余儀なくされました。結果として、長谷堂城は落城せず、最上義光は出羽国の支配を守り抜くことに成功します。

この長谷堂合戦から見えてくるのは、最上義光が「力押しの武将」ではなく、状況判断と防衛戦に優れた戦国大名だったという点です。敵を撃破することよりも、城を守り切り、時間を稼ぎ、最終的に有利な情勢を引き寄せる。その判断力こそが、義光の「強さ」だったと評価されています。

同時代の伊達政宗のような攻撃的な戦い方とは対照的ですが、長谷堂合戦は、最上義光が東北の有力大名として生き残れた理由を示す、象徴的な戦いだったといえるでしょう。

最上義光の居城「山形城」

山形城|山形県山形市
山形城

最上義光の本拠地として知られるのが山形県山形市の「山形城」です。山形城は出羽国支配の中心として整備され、城下町づくりも進められました。現在は霞城公園として整備され、市民の憩いの場であると同時に、最上義光の時代を感じられる史跡となっています。

ちなみに山形城が「霞城(かじょう」と呼ばれているのは、「長谷堂合戦」で上杉軍が攻めて来たときに、山形城に霞がかかって見えなくなったことに由来しています。

城跡を歩くと、最上氏が東北の一角を担った大名であったことを、地形や規模から実感することができます。御城印や周辺の史跡とあわせて巡ることで、義光の統治の足跡がより身近に感じられるでしょう。

最上義光の娘にして悲劇の姫「駒姫」

駒姫(こまひめ)は、最上義光の娘として生まれた女性で、戦国時代を代表する「悲劇の姫君」の一人として知られています。生年は天正9年(1581)頃とされ、出羽国を治める戦国大名の娘として育ちました。

駒姫が歴史に名を残すきっかけとなったのは、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次の側室になる予定だったことです。これは最上義光にとって、中央政権である豊臣家との結びつきを強める重要な政略でした。当時、最上氏は東北の有力大名ではあったものの、中央との関係強化は家の安定に直結する重要事項だったと考えられています。

しかし、文禄4年(1595)、秀次が謀反の疑いをかけられて失脚し、高野山で切腹させられる「秀次事件」が起こります。この事件により、秀次の妻妾や関係者も厳しい処罰の対象となりました。駒姫もその一人とされ、京都へ送られることになります。

当時の駒姫の年齢は、わずか15歳前後だったと伝えられています。まだ正式に秀次の側室となる前であったともいわれ、助命を求める声もあったとされますが、それが認められることはありませんでした。駒姫は同年、京都・三条河原にて処刑されたと伝えられています。

まとめ|「最上義光 武将とは?」を一言で言うと

最上義光とは、出羽国をまとめ上げ、山形の基礎を築いた堅実な戦国武将です。

派手な英雄像とは異なるからこそ、城跡や史跡を実際に歩くことで、その存在感がより深く伝わってきます。

▼歴史上の人物のノミチ記事はこちら

タイトルとURLをコピーしました