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江戸時代の浮世絵師「歌川広重」とは?代表作「東海道五十三次」や葛飾北斎、ゴッホとの関係

誰でも一度は耳にしたことがあるであろう江戸時代の浮世絵師「歌川広重」。

美人画や役者画から徐々に風景画を制作し、代表作『東海道五十三次』で一世を風靡しました。そんな広重の生涯や評価されたポイント、葛飾北斎やゴッホなどとの関係についてご紹介します。

歌川広重ってどんな人?

本名は安藤重右衛門「安藤広重」とも呼ばれたが・・

歌川広重は1797(寛政9)年に江戸の八重洲(現在の中央区)に生まれました。火消の同心(下級役人)の子どもとして生まれ、数え年13にして家督を継ぐことになります。安藤重右衛門となります。幼い頃から絵が好きだったことから、15歳で歌川豊広に入門。翌年に自分と師匠から一文字ずつとって歌川広重の名前を与えられました。

安藤広重と呼ばれることもありましたが、安藤は本性で広重は号であるため、この呼び方は不適切なのだそうです。

名所画『東海道五十三次』で大ブレーク!

その後は役者画や美人画を描き続け20年ほど鳴かず飛ばずの無名時代を過ごしますが、葛飾北斎の影響で名所画を描き始め、『東海道五十三次』が評判となり一躍その名を轟かせました。

その後も2万点におよぶ作品を残しましたが、1858(安政5)年に62歳で没しています。死因はコレラであったと伝えられています。

歌川広重の代表作(浮世絵)

「東海道五十三次」

『東海道五十三次 小田原』「虎ヶ雨」神奈川県中郡大磯町

『富嶽三十六景』で大ブレークした葛飾北斎に影響を受け、1833(天保4)年に発表した『東海道五拾三次』が評判となり、今でも歌川広重の代表作として親しまれています。

「名所江戸百景」

『名所江戸百景』は歌川広重晩年の作品です。生まれ故郷である江戸の風景を1856〜1858(安政3~5)年に全118点描き上げました。広重芸術の中でも細かい描写と絶妙な技を詰め込んだ、まさに有終の美を飾るにふさわしい作品です。

上の作品『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』は、ゴッホが模写したことでも知られています。隅田川にかけられた大橋(日本橋の浜町から深川六間堀の方にかかっていた橋)の上を急ぐ、突然の夕立に打たれた人々の姿が印象的な作品です。

ゴッホも模写した歌川広重の魅力

歌川広重『名所江戸百景 大はしあたけの夕立 』

当時パリで流行っていた「浮世絵」にゴッホが出会ったのは、1886年のことでした。今までにない浮世絵の魅力に傾倒したゴッホは、貧乏ながら自ら浮世絵を購入したり、自分の作品と浮世絵を同時に展示する個展を開いたりしていました。

なかでも歌川広重の浮世絵は『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』や『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』などの作品を模写しており、彼の作品にも大きな影響を与えています。

ロンドン・ナショナルギャラリーに展示されているゴッホ『ひまわり』

歌川広重と葛飾北斎の関係

歌川広重にとって葛飾北斎は影響を受けた人物であり、ライバルでもありました。葛飾北斎は1760年生まれで、広重より37歳年上。70歳を過ぎて発表した『富嶽三十六景』は、浮世絵に「風景画」という新たな風を吹かせた革新的な作品でした。歌川広重が『東海道五十三次』を発表したのはその2年後。

広重は教えを乞うためによく北斎のもとを訪れていました、その後も花鳥画や富士画など、同ジャンルの風景画を発表し続けた2人は互いに影響し合い、切磋琢磨したライバル関係だったといえるのではないでしょうか。

ヒロシゲブルーと謳われた色彩センス

『東海道五十三次 小田原』「虎ヶ雨」神奈川県中郡大磯町

歌川広重の作品は海外でも高い評価を受けています。特に青色・藍色の美しさは「ジャパンブルー」もしくは「ヒロシゲブルー」と謳われるほど。青のグラデーションを時に大胆に、時に繊細に使う広重の技法は素晴らしいものでした。19世紀後期のフランス印象派画家たちやアールヌーヴォーの芸術家たちに多大な影響を与えています。

歌川広重も描いた古道を歩こう!

今回は江戸時代に活躍した浮世絵師、歌川広重について簡単にご紹介しました。歌川広重も描いた東海道や江戸の街を歩けば、往時の情緒を感じるきっかけになるかも知れませんね。

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