江戸時代の思想家・藩士として有名な人物はたくさんいますが、皆さんは佐久間象山を知っているでしょうか?
「名前は知っている!」「いろんなことをした人」といった印象を持つ人がいるかもしれませんが詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。
佐久間象山は長野県松代に生まれ、文武両道で非凡な才能を活かし多くの門下生を輩出しました。
門下生には勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬などがおり象山がいなければ明治維新は違う形になっていた、もしくは起こらなかったのではという研究者がいるほど後世に大きな影響を与えました。
この記事では佐久間象山について年表で生涯を振り返るとともに、あまり知られていない功績や関係性の深かった門下生などについてわかりやすく解説します。
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佐久間象山とはどんな人?儒学者・兵学者・思想家・科学者などの顔を持つ
佐久間象山は信州松代藩(現在の長野県長野市松代)に生まれました。儒学者、兵学者、思想家、科学者などさまざまな顔を持っており、江戸の塾には多くの若い才能たちが集まり象山から教えを受けました。
混迷する日本の国情を憂いて公武合体論や開国論を唱えましたが、54歳で上洛した際に過激な攘夷派に暗殺されました。
象山は自身を「国家の財産」と自認するなど性格はとても自信過剰だったと言われています。自信過剰ゆえに敵も多く、偉大な功績を残したにもかかわらず評価が低いのはこの性格に由来するとこが大きいと言われています。
象山の生前は勝海舟が著書『氷川清話』の中で貶していたり、高杉晋作は「あれは一個の法螺吹きだ」と評していたりしますが、亡くなった後は関わりのあった多くの人々が象山の功績を評価し死を弔ったそうです。
佐久間象山の一生を年表で解説
佐久間象山の生涯は波瀾万丈です。年表で一生を振り返ってみましょう。
年齢 | 主な出来事 |
0歳(1811年) | 松代藩士 佐久間一学の長男として誕生 |
23歳 | 江戸佐藤一斎の塾に入門 渡辺崋山や藤田東湖等と親交をもつ 数年後に松代に帰藩し経書や漢字を教え始める。 この頃に号を象山とする |
29歳 | 神田お玉ヶ池に象山書院を開き多くの門下生を輩出 |
32歳 | 藩主幸貫老中の海防顧問として海防八策を幕府に上申 植民地化される可能性もあった危機的状況から国家を救う |
36歳 | 帰藩し湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に尽力 大砲・電信機等の製作・実演を精力的に行う |
41歳 | 江戸木挽町に塾を開き勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰など維新の英才を輩出 ペリー来航国論沸騰時、軍議役として横浜警備にあたる 開国論を唱え横浜開港を主張 |
40代〜50代前半 | 松陰密航事件に連座して投獄されたのち松代に蟄居される 高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れる |
54歳 | 幕府の命で京都に上った際、三条木屋町で狂信的攘夷派の凶刃に倒れ死去 |
象山は3歳で文字の読み書きができた非凡な子どもでした。一方でとてもわんぱくで喧嘩早い性格だったそうです。15歳で元服、松代城主 真田幸貫に会い藩の儒学者鎌倉桐山の私塾に入ることになりました。これが象山にとっての本格的な学問のスタートです。
1828年に家督を継ぐと真田幸貫によって子の幸良の習・教育係に抜擢されますが、高齢の父の介護ができないとして5月に辞任。
その後自信家な性格が災いし幸貫の逆鱗に触れ、1832年には藩主から閉門が命じられてしまいます。しかし父の病が重くなったため象山は許されました。このとき若干18歳ですが、すでに波瀾万丈です。
父が亡くなると象山は1833年江戸に出ます。儒学の第一人者・佐藤一斎から詩文・朱子学を学びその才能を高く評価され、1839年には私塾を開設。
この時代は日本海に外国船が出没しており、象山は近代様式砲術など兵学も学びました(師匠の江川英龍に嫌われ、知人に書物を借りて独学で西洋兵学を習得)。
松代に帰藩すると西洋学問を幅広く吸収し多くの機械を開発するようになります。この時期の象山は科学者であり開発者です。
1849年に日本初の指示電信機による「電信」の試験を行ったのを筆頭に、西洋文献を読み漁り電磁石、絹巻銅線、 地震予知機、電気治療器、ガラス、カメラなどの製造に成功。天然痘ウイルスへの予防接種の開発導入を検討するなど医学にも精通していました。
1850年40代になった象山は江戸木挽町の松代藩邸に私塾を開き、吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬など多くの門下生を輩出しました。1852年には勝海舟の妹 順子と結婚。順風満帆な日々を送っていました。
しかし1854年の2度目のペリー来航の際に門下生の吉田松陰が密航を企て自首し捕まると、松陰の行動を擁護するような発言をし牢獄に入れられ、松代で閉門のうえ自宅の一室に9年間謹慎させられることになりました。
松代に戻った象山は家老の家に預けられ、この間に高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れました。9年間の蟄居生活のうちに時流を鋭く分析し思想は攘夷論から開国論へと変わりました。
1864年、象山は京に招かれ朝廷の高官や徳川家茂などに面会し「公武合体論」と「開国論」を説きました。
京で象山に会った西郷隆盛は「象山に会って、その意見を聞いてなかったら維新は失敗をしたかもしれない」と後に語っています。
しかし象山は尊王攘夷派から命を狙われるようになり、1864年7月11日に攘夷派の浪士 前田伊右衛門や肥後藩の河上彦斎などに襲撃され亡くなりました。
ノミチちゃんの一言
佐久間象山の最大の功績-多くの門下生を輩出-
佐久間象山の最大の功績として日本の歴史に大きな影響を与えた偉人を多数輩出したことが挙げられます。
門下生の数は多く象山塾の主な塾生を年表にまとめると以下の通りです。名だたる偉人たちが象山の元で学んだことがわかりますね。
1850年 | 勝海舟 |
1851年 | 小林虎三郎(吉田松陰と共に象門の二虎と呼ばれた武士、教育者) 吉田松陰 宮部鼎蔵(松陰の友, 池田屋事件で死亡) |
1852年 | 河井継之助(江戸末期の武士) 加藤弘之(後の東京大学総長) |
1853年 | 坂本龍馬 |
1854年 | 橋本左内(福井藩士) 真木和泉(久留米藩士) |
不明 | 三島憶次郎(武士、政治家、実業家) |
西郷隆盛や山本覚馬(新島襄の兄)もこの塾で象山と会っています。そこで以下では特に有名な2人の門下生と佐久間象山の関係について紹介します。
ノミチちゃんの一言
優れた門下生を多数輩出1 佐久間象山と吉田松陰
象山と最も縁深かったのが吉田松陰です。1854年ペリーが2度目の来航をし日本が開国を受け入れた際、象山門下生だった松陰は勝手にアメリカに渡航させて欲しいと頼みます。しかしペリーは幕府との交渉に差し障りが出る&面倒という理由で拒否。
当時は幕府の許可なく国外出港するのは犯罪だったため、松陰は下田奉行に自首して投獄されることになります。そしてなんと象山も松陰をその気にさせた(そそのかした)として捕まり松代藩の自宅に9年間閉じ込められてしまったのでした。
象山は極めて論理的で先まで読んで行動するタイプの天才です。しかし松陰は結果や先のことよりも目の前のことに全力を注ぐ行動タイプの天才。結果がどうなるかわからない段階でとりあえず行動する松陰のことを、象山は愛をもって「狂人」と評しています。
吉田松陰と佐久間象山の関係性については関西大学出版から『吉田松陰と佐久間象山開国初期の海外事情探索者たち(Ⅰ)』という素晴らしい本が出ている(膨大な一時資料を収録)ので、興味ある方はぜひ読んでみてください。
優れた門下生を多数輩出2 勝海舟-妹は象山の妻-
2人目は幕末の日本を語る上では欠かせない人物 勝海舟です。勝海舟は佐久間象山の門下生でのちの日本の近代化を推し進めた重要な人物ですが、勝海舟は本人と象山の縁も深いですが、実は妹が象山と結婚しています。
1852年象山が42歳の時、象山は勝海舟の妹順子を正妻として向かい入れました。それまで象山には妾はいましたが正妻はいなかったので初めての結婚です。このとき順子はまだ17歳、なんと25歳差婚でした。
象山は結婚を伝える友人への手紙の中で「この年の差をお笑いください」と若干自虐的に書いていますが、この結婚をとても喜んでいたみたいです。
象山から積極的にアプローチして実現した結婚でしたが、順子も象山のことを気に入っていたとのこと。順子が優秀な門下生の妹だという点も魅力的だったようです。
お互いに性格については理解できなかった点も多かったようですが、象山の振る舞いからは優しい旦那さんという印象が読み取れます。順子がコレラに罹った際には、自作のエレキテルで種痘も行いました(これを優しいとみるか、人体実験したヤバい人とみるかは人それぞれ)。
ちなみにこの結婚について勝海舟の父は大反対したとのこと。さらにキューピットは坂本龍馬だったと言われています。豪華な登場人物です。
さらにさらに象山は結婚を機に勝海舟に「海舟書屋」という額をプレゼントします。勝海舟はそれまで麟太郎という名前でしたが、この額から文字をもらって「海舟」と名乗るようになりました。勝海舟という名前は象山と順子の結婚がなければ誕生していなかったかもしれません。
ノミチちゃんの一言
最後に-長野県長野市松代町には佐久間象山ゆかりの地がたくさん!-
佐久間象山について紹介してきましたが、象山に興味関心を持った人にぜひ訪れてもらいたいのが長野市松代町です。現在でもゆかりの地が多数残っています。
象山をまつった象山神社や象山ゆかりの品が多数収蔵された象山記念館、象山が実験をした鐘楼、佐久間象山の墓などが半径1km内にあります。
別サイトの記事ですが以下の記事では象山ゆかりの地めぐりについてわかりやすく解説されています。ぜひ長野方面にお出かけの際は立ち寄ってみてください。
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参考資料
・陶徳民編著, 2016, 吉田松陰と佐久間象山 開国初期の海外事情探索者たち(Ⅰ), 関西大学出版部.
・事物事典風雲伝, 佐久間象山、幕末の志士に大きな影響を与えた天才学者.
・ようこそ松代へ, 佐久間象山の誕生地 松代.
・国立国会図書館, 佐久間象山, 近代日本人の肖像.
・幕末ガイド, 佐久間象山
・象山神社, 佐久間象山先生.