五街道とは、江戸時代に整備された主要な5つの陸上交通路です。
五街道は全てが江戸日本橋を起点に伸びており、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州道中(奥州街道)を指します。
五街道とは?
五街道(ごかいどう)とは、江戸を起点とする五つの陸上交通路です。
慶長6年(1601年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道の整備を始め、2代将軍家綱の代になり基幹街道に定められました。
五街道の特徴は全てが江戸の日本橋を起点とする点にあります。
これは五街道の整備を開始した徳川家康が、反乱や反逆を起こした地方の大名に江戸から討伐軍を派遣するための軍用道路をつくることを目的にしていたことがひとつの理由です。
また五街道には江戸幕府3代将軍徳川家光によって定められた参勤交代のための道として用いることができるようにという目的もありました。
実際に江戸時代文政期には五街道を参勤通行した大名の数は277家にも及びます。
五街道は「江戸時代」に「日本橋を起点」として整備された「参勤交代のため」の街道だと覚えておこう!
五街道整備の歴史
五街道の中のひとつ東海道は、徳川家康によって“つくられた”といわれることがありますがそれは間違いです。
道そのものは7世紀~10世紀頃から存在しており、それぞれが東西交通の重要な動脈として使われていました。
徳川家康は、征夷大将軍に就く2年前の1601年頃から東海道の“拡充・整備”を開始しました。
そして1605年に徳川2代将軍 徳川秀忠の命により、街道の整備が本格化しました。
その後、代替わりしながらも東海道が1624年、日光街道が1636年、奥州街道が1646年と続々と街道の整備は進んでいきました。
五街道の整備とは具体的には、道路制度の改革、道路幅を拡幅し宿場を設置、一里塚を設ける、朱印状で宿場ごとに伝馬の常備を義務付ける、松並木の整備などを指します。
例えば徳川秀忠の時代には、整備の一環として五街道の標準幅員は約9mにすること、道の脇には水が流れるようにすること、良い道には土を置かないこと、水溜まりや泥濘の所は砂石で敷き固めることなどを命じました。
五街道の起点は「日本橋」
五街道すべての起点になっているのは東京都の「日本橋」です。
現在もここが国道1号、国道4号、国道6号、国道14号、国道17号の起点として指定されています。この石碑は、シンボルとしての価値が高く、多くの観光客が訪れるスポットです。
五街道それぞれの紹介
東海道 (とうかいどう)
東海道は江戸と京都を太平洋沿いに結んだ街道です。
江戸日本橋〜京都三条大橋の間に53の宿駅が整備され、それらは俗に東海道五十三次と呼ばれました。総延長は約495.5kmに及びます。
他の街道を比較して最も利用者が多かったのが東海道であり、参勤通交大名数(文政期)は146家と、続く日光道中の41家の3倍以上に上ります。
そのため江戸幕府は東海道をとても重視ししており、東海道を確保・維持し続けるために、小田原や沼津、田中、掛川、浜松、吉田(現豊橋)、岡崎、桑名などに譜代大名を配置しました。
一般庶民には十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重浮世絵『東海道五十三次』などで親しまれました。
▼東海道の詳細はこちら!
18世紀末になると伊勢参宮や奈良、大坂、京都などの参詣や見物のために利用され、今日では国道1号線として人々の暮らしを支えています。
▼浜松宿と掛川宿で秋葉街道に分岐しています。
中山道 (なかせんどう)
中山道は江戸と京都を内陸経由で結んだ街道です。1602年に伝馬制が敷かれた中山道の総延長は約534km、宿場の数は69と東海道に次ぐ幹線道路でした。
参勤交代の大名は東海道の146家に対し中山道は30家と少なかったですが、往来が少なく大河の氾濫やそれに伴う渋滞も少なかったため二条城番や大阪城番、日光例幣使などは、行き帰りどちらかは必ず中山道を通っていました。
戦国時代には山道や東山道と称され、江戸時代になると中山道や中仙道と表記されるようになりました。
1716年には政治家で朱子学者の新井白石の意見を聞き江戸幕府の通達で名称が中山道に統一されました。ただ一般庶民の間では木曽街道や木曽路といった古くからの呼び方も用いられていました。
甲州街道 (こうしゅうかいどう)
甲州街道は江戸と甲府(または下諏訪)を結んだ街道です。
総延長は約220km、宿場の数は45宿でした。
1618年に官道となり、江戸時代中期以降に商品流通路として賑わったため、参勤交代大名数(文政期)は3家(高遠藩、高島藩、飯田藩)と五街道の中で最も少なかったです。
甲州街道は、はじめは「甲州海道」と呼ばれていましたが海に面していないため、その後「甲州道中」「甲州街道」と改名されました。
ちなみに五街道の中で最も遅くに完成したのが甲州街道で、現在は国道20号がこの街道を継承しています。
特徴は商品物流の動脈であったということ。
幕府の家臣団であった八王子千人同心や富士山信仰の組織である富士講、幕府御用達の茶を江戸まで届けるお茶壺道中などが通り賑わいを見せていた甲州街道は、江戸100万人の生活を支える重要な街道でした。
日光街道 (にっこうかいどう)
日光街道は江戸と日光を結んだ街道です。今日では東京都の通称道路名と混同しないように「旧日光街道」と呼ばれることもあります。
日光街道は、1617年に徳川家康が日光に改葬され東照権現として祀られると共に整備されました。総延長は約130kmと五街道の中で最も短い街道でしたが、参勤通交大名数(文政期)は41家と東海道に次ぐ多さでした。
日光街道のゴール地点は世界文化遺産にも登録されている日光東照宮です。日光東照宮への参詣は江戸時代から庶民にも許されていたため、日光道中は江戸時代を通してにぎわいをみせていました。
日光街道についてより詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。
奥州街道 (おうしゅうかいどう)
奥州街道は正式名称を「奥州道中」といい、江戸~福島県白河までの27宿を擁する街道です。
しかし一般的には脇街道もあわせた江戸~松前道のうち本州北端の三厩宿(青森県)までの約100宿を指すことが多く、その長さはおよそ900kmにも及びます。
寛永年間(1624~44年)頃に整備された奥州街道は、江戸時代前期には参勤交代の交通連絡路として用いられました。
しかし江戸時代に中期になると蝦夷地開発のため公用路としての利用が増え、江戸時代末期にはロシアからの蝦夷地防衛のための往来が増加するなど、北方問題を巡る公用通行が多いのが特徴でした。
奥州街道は現在では国道4号となっています。
▼奥州街道の宿場町一覧や詳細はこちら!
最後に-日本の街道の総延長は約12,000km以上!-
この記事では江戸時代に整備された五街道についてみてきました。
江戸時代には五街道の他にも、脇街道やその他諸街道が整備され、その総延長は約12,000kmにもなるといわれています。ノミチでは街道に関する記事を多数掲載しているので、ぜひそちらもあわせてご覧ください。
▼江戸と東京の歴史を学ぶならこちらもおすすめ!
・i-愛ロマンチカ, 「歩く甲州街道」.
・旧街道ウォーキング人力, 「甲州街道」「東海道」「中山道」「奥州街道」.
・国土交通省, 「近世の道 五街道」.
・国土交通省, 「近世の道-五街道-諸道の性格-」.
・国土交通省, 「近世の道 五街道の道路整備と維持管理」
・小林明, 「大名行列が通った道 : 五街道と脇往還」nippon.com.
・日本大百科全書, 「東海道」.
・八王子市公式ホームページ, 2016, 「八王子千人同心の歴史」.
・藤沢市, 2016, 「東海道五十三次(五十七次)とは」.