最澄(さいちょう)は、平安時代初期に活躍した日本仏教の僧で、天台宗の開祖として知られています。
比叡山延暦寺を開き、「一隅を照らす」という思想を説いた人物でもあります。彼は唐へ渡り仏教を学んだ後、日本の実情に合った新しい仏教のあり方を示し、多くの弟子を育てました。
また、仏教を通じて人々を救うだけでなく、学問や修行を重視し、後の日本仏教の発展に大きな影響を与えました。
この記事では、最澄の生涯や教え、その功績についてわかりやすく紹介していきます。
最澄とは?
最澄(さいちょう、767~822年)は、平安時代初期に活躍した僧侶で、日本に「天台宗(てんだいしゅう)」を広めた人物です。のちに「伝教大師(でんぎょうだいし)」という称号を贈られ、日本仏教史において欠かせない存在となりました。
最澄は比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を建て、国家のためだけでなく庶民のための仏教をめざしました。その思想は後の時代に大きな影響を与え、多くの宗派が比叡山から生まれています。
最澄の生涯
幼少期から出家まで
最澄は近江国(現在の滋賀県)に生まれました。
幼いころから仏教に強い関心を持ち、19歳で出家して僧侶となります。
唐への留学
804年、最澄は遣唐使の一員として唐(中国)に渡り、天台山で天台教学を学びました。
わずか数年でその教えを身につけ、805年に帰国します。
比叡山延暦寺の建立
帰国した最澄は、比叡山に「延暦寺」を建立しました。
ここを拠点に天台宗を広め、のちに日本仏教の中心地となっていきます。
天台宗の特徴と最澄の思想
最澄が広めた天台宗の中心的な考えは、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という教えです。
これは「すべての人は仏になる可能性を持っている」という考え方で、特権的な僧侶や貴族だけでなく、庶民にとっても救いのある教えでした。
また、天台宗は「止観(しかん)」という修行を重視し、心を静めて真理を観ることを大切にしました。
国家のためから人々のためへ
奈良時代までの仏教は「鎮護国家(ちんごこっか)」といって、国家を守るための色合いが強いものでした。最澄はそれを変え、「すべての人々を救う仏教」をめざしました。
また、最澄は僧侶の養成制度にも力を入れました。比叡山では「12年の修行」を義務づけ、学問と修行を兼ね備えた僧を育てようとしたのです。
最澄と空海の関係
同じ時代に活躍した僧侶に「空海(くうかい)」がいます。空海は真言宗を開き、日本に密教を広めました。
最初、最澄は空海に密教の経典を借りるなど交流がありましたが、しだいに教えの違いから対立するようになります。
- 最澄:万人救済を重視する天台宗
- 空海:密教による即身成仏を重視する真言宗
この二人の活動によって、日本仏教は大きく発展しました。
最澄の功績
- 天台宗を日本に広めた:比叡山延暦寺を中心に仏教を発展させた。
- 万人救済の思想:「すべての人が仏になれる」という平等な教えを説いた。
- 僧侶教育の改革:修行を重視し、後の仏教界に多くの人材を送り出した。
最澄の教えは、のちに浄土宗、日蓮宗、禅宗など、さまざまな宗派が生まれる土台となりました。
まとめ|最澄とはどんな人物?

最澄は、奈良仏教から平安仏教への流れをつくり、日本仏教の新しい時代を開いた人物です。
- 天台宗を開き、比叡山延暦寺を築いた
- 「すべての人が仏になれる」という平等な思想を広めた
- 仏教を国家から庶民へと近づけた
最澄は「伝教大師」として、今も比叡山で人々から尊敬され続けています。
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