陸奥「三戸城(さんのへじょう)」は青森県三戸町にある山城です。
築城年は不明ですが、永禄年間(1558〜1570年)頃、南部氏24代当主の晴政によって築城されました。2022(令和4)年には国の史跡にも指定され、ますます注目が高まる三戸城。
今回はそんな三戸城跡に実際訪れてみた様子や御城印の情報などについてまとめました。
この記事はサンノヘエールの五十嵐さんに案内していただいた内容を基につくったよ!
三戸城の基本情報とアクセス
三戸城へ車でお越しの方は「三戸城跡県立城山公園」の無料駐車場をご利用ください。桜の時期には有料になるようです。
所在地 | 青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下 |
入場料 | 無料(三戸城温故館は220円) |
御城印頒布場所 | 三戸城温故館 |
頒布可能時間(営業時間) | 9:00〜16:00 |
公式サイト | https://www.town.sannohe.aomori.jp/kanko_miryoku/2/1123.html |
三戸城の御城印(冬季は閉鎖中)
三戸城の御城印は温故館にて300円でいただくことができます。
南部氏の家紋である「向鶴」の朱印をあしらったデザイン。
ただし温故館は冬季閉鎖中なのでご注意ください。(わたしはたまたま展示の入れ替え作業中だったため、スタッフの方が親切で対応してくださいました)。
三戸城と南部氏の歴史|ルーツは甲斐国!
三戸城を築いた三戸南部氏は甲斐国南巨摩郡南部郷にルーツがあり、家祖は甲斐源氏の流れをくむ南部光行。平安時代末期の1189(文治5)年に奥州平泉への攻撃で功を挙げたことから陸奥国へと入部しました。
1539(天文8)年にそれまで居城としていた「本三戸城(現在の青森県南部町)」を家臣の放火によって失ったことにより、南部氏24代当主の晴政が現在の三戸町に新たな「三戸城」を築きました。これが現在も三戸城と呼ばれています。
三戸城跡の見どころ
三戸城は両側を川にはさまれた河岸段丘の上にあります。城下との高低差は90m、丘陵上の広さは東西およそ1kmにも及び、江戸時代初期には家臣たち用に屋敷割をしていたようです。
城を築くために備えられたかのような好立地に、南部氏もさぞ喜んだことでしょう。
空堀跡や大門跡
糟部(ぬかべ)神社の裏手にある三戸城に唯一残る空堀跡。深さ3m、長さは20mほどあります。
周辺には本丸の石垣を補強していた礫(れき)の跡も残っています。石垣のあったであろう部分には礫が残り、そうでない部分からはピタッとなくなっているところが特徴的でした。(ちなみに上の写真は本来立ち入り禁止の場所から撮っていますが、まち歩きガイドの一環で特別に入れていただいています)。
鍛冶屋御門の石垣
三戸城の搦手口(からめてぐち:裏口)に当たる鍛冶屋御門には、立派な石垣が残っています。
大きな石で組まれた野面積みの石垣。箇所箇所に石を加工した跡も見られます。
ちなみに網御門跡南側の石垣も見事でした。石垣の組み方はやや石を加工した「打込接(うちこみはぎ)」にも見えます。(説明していただいたのですが、忘れてしまいました…)。
南部三郎光行を祀る糠部神社
糠部(ぬかべ)神社は南部氏初代当主である源朝臣南部光行公を御祭神とする神社です。1878(明治11)年に創建されました。廃藩置県に伴い廃城令が出された折、城郭の取り壊しを阻止するために立ち上がったプロジェクトだったそうです。
神社名の「糠部」は「ぬかべ」「ぬかのべ」「ぬかのぶ」などと読み、陸奥国にかつてあった郡名が由来となっています。元は豪族の名であった説やアイヌ語である説など、語源は定まっていません。
【青森】陸奥「三戸城」の御城印と歴史まとめ
三戸城の歴史や見どころ、御城印についてまとめてみました。立地といい、石垣の組まれ方といい、当時の南部氏の
三戸町や三戸城へお越しの方の参考になれば嬉しいです。
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